私が膠原病発症したのは、恐らく、12歳、小学6年生の時。
恐らく というのは、生まれ育った町が田舎で、正しい診断ができる医師がいなかったからです。
忘れもしない真冬の体育館で、今と違って半袖ブルマーの格好で、授業のバスケットをしていた時、かじかんだ手に当たるボールの感触が普段と違ってしびれているような、痛い感じがして見ると、手のひらから指先まで真っ白…というか黄色というか、爪まで白く血の気が無い色をしていて、自分でも気持ち悪くて、周りの友達に見られないよう、なるべくボールに触らないように、ただただ走り回って。
体が暖まってきたころ、今度は指先がジンジンしてきたと思ったら、だんだん白色→紫色→赤黒く変わって血が通い始めたように血色が戻って、とても安心したのを覚えています。
これがレイノー症状を自覚した最初だったと思います。
この時の私の様子を、担任の先生は遠目で見ていてくれたんですね。
授業が終わって教室に戻るときに「突き指でもしたの?」と声をかけてくれたのです。内心不安だらけだった私は泣きそうになりながら、起こった症状を説明したのを覚えています。
おそらく母が担任からこの件の連絡を受けたのだと思うのですが、後日、市内の総合病院の小児科に連れて行かれたのですが、院内は暖かくて症状が出ず、医師も診ようがなかったのかもしれません。
栄養失調からくる症状だろう、とビタミン剤を出されてお終いでした。
当時の私は食が細く、爪楊枝 とか マッチ棒 に例えられるくらい(親戚の叔父叔母に)細かったので、栄養失調と言われても、母は何の疑いもなかったと思います。
担任も診察結果を聞いて、大した事なくて良かったと安心したみたいでした。
私は、栄養失調なんて言われた事を色々な人に説明している母に、恥ずかしいから言わないで!と怒ってました笑
当然、ビタミン剤なんかで症状が無くなる訳もなく、度々手も足先も白くなり、お風呂で熱い湯船に手を入れてもなったりする事で、次第に、寒暖差がダメなのかなぁ?と気をつけるようになりました。
そして、レイノーだけだった症状が…
中学生になると、足首や土踏まず、膝が痛むようになり、、病院へ行けば成長期だからと言われるだけで、何の治療もしないまま社会人になり、個人病院の事務員として働き始めました。
初めての忘年会の時、看護師さんにレイノー症状を見られ、一度ちゃんと血液検査をした方が良いと言われて、ようやく膠原病の診断が出ました。
院長が肝臓専門だった為、市外の病院に月に一度来る東大の内科医の先生に紹介状を書いていただき、電話予約して車で1時間ほどかけて行き、「膠原病 強皮症」と確定しました。
当時は、難病で落ち込むというより、やっと、ちゃんとした病名がわかった!
という思いのが強かったように思います。
母は、同級生が膠原病で出産時に亡くなっていたそうで、私の報告にかなりショックを受けていました。
その頃医学書を目にする機会があり、「予後」や「余命」や「出産により悪化」等々読んで、相当落ち込みました。
それでも、特に飲み薬などの治療せず、生活できていました。スキーもやったり・・・
ある日寒いけれど日差しが強い中、車を洗車した翌日、高熱と全身の皮疹で務めていた病院へ入院。
「日光過敏」によるものと言われて、初めてステロイド点滴治療。
1週間ほどで退院。ステロイド減量してゼロになるまで1か月でしたが、多少のムーンフェイスになっていました。
その後は紫外線に気を付けるようになり、病気自体落ち着いたまま、色々あって結婚。
県外へ嫁ぐことになり、お世話になった先生に引っ越し先の大学病院を紹介していただき、ここから、病気と向き合う生活が始まりました。
大学病院では、「全身性エリテマトーデス」の診断に変わり、直ぐに治療が必要だと言われ、毎日プレドニン20mg服用。あっという間にムーンフェイスになり、社宅の人には「幸せ太り?」などと言われ、半引きこもりに。同時にあちこちの関節も痛み出し、朝起きれなくなってしまいました。ここまで半年かからなかったです。
何も治療していなかった頃のが元気でいられたのに・・・薬を飲むのが嫌で仕方なかった。
治療法、薬は年々変わっていくので、これから治療を始める方は、主治医と良く話して、副作用も理解して、長い目で頑張りすぎずに、頑張りましょ!
今15年以上経って、出産もできました。
なんとか生活していますよ。